12月8日は宮澤レーン事件から79年
1941年12月8日、午前7時の日米開戦の臨時ニュースを聞いた宮澤弘幸は急ぎレーン夫妻の官舎に向かい「戦争は国と国との出来事、私とレーン先生の間の出来事ではありません。私は先生一家に対する信義を固く守り続けますからどうか信頼してください。」と告げ、席を立ったという。そのことを戦後解放されてから妹の美江子さんに語っています。その直後宮澤弘幸もレーン夫妻も警察に検挙されたといわれていましたが、ポーリンさんがこの日のことを帰国後、出身大学のニュースレターに「日本での監獄生活」として報告していたことが最近分かりました。【宮澤・レーン事件を考える会学習資料7 レーン夫妻を語り継ぐその3)
レーン夫妻はその日午前8時からの北大の授業に急いで行ったものの、もう指示があるまで教えなくていいと告げられ、帰宅。ポーリンさんはハロルドの父と昼食中に警察が来て検挙され、ハロルドはその時銀行に出向いていて留守だったが帰宅後検挙されました。冤罪にもかかわらず、スパイ罪で懲役15年―12年という重罪を課せられた「宮澤・レーン事件」が引き起こされたのです。弘幸さんは終戦の年10月に解放されたものの、厳しい獄中生活で結核を患い1947年2月22日に亡くなりました。
宮澤・レーン事件を考える会では二度とこのような戦争による悲劇を繰り返させないため12月8日を記念した集会を開催してきました。しかし今年はコロナ感染第3波の襲来のため、延期することになりました。
宮澤弘幸さんの妹、秋間美江子さんが今年10月25日にアメリカ、ボルドーにて亡くなられました。
「美江子さんを追悼する会」及び「宮澤・レーン事件を考えるつどい(宮澤弘幸が遺したアルバムからみられる宮澤弘幸の人間像)」をコロナの状況を見ながら2月22日の命日近くに開催したいと考えています。