ダ―チャ・マライーニ来日の報告2 名古屋

   ダ―チャ・マライーニを日本に迎える会 事務局 宮澤・レーン事件を考える会

6月14日  マライーニ一家が最初に収容された名古屋の天白寮跡と豊田市の廣済寺を訪ねました。

戦争末期、ムッソリーニ政権が崩壊し、イタリア北部にナチス・ドイツによるかいらい政権が生まれましたが、フォスコとトパーツィアはこの政権への忠誠宣誓を拒否しました。ダーチャは「子どもたちのことを考えれば同調という選択肢もありました。それでも両親は自由を選びました。しかし、自由には代償が伴います」。天白寮での待遇は劣悪で、ダーチャは「日本の強制収容所」と呼びます。4人の看守は悪意に満ちていました。食料を横取りする、暴力をふるう、殺すと脅迫するなど。飢えのあまりダーチャはアリを食べ、体に悪いとたしなめられました。

現在は某ゼネコンの立派な社員寮となっていて、収容所の存在を知らせる案内はありません。ダーチャは「私たちの存在までが消されるように感じる」といいます。ヨーロッパでは歴史遺産には細かにプレートを貼りつけ紹介しますが、日本では自国に都合の悪い歴史は、強い圧力でもなければ伝えられません。

東南海地震と名古屋空襲によって一家は豊田の奥深い山間にある廣済寺に移されました。住職の孫の啓子さんはダーチャと一緒に遊んだ幼な友達ですが、今回再会することができました。啓子さんはダーチャのことを今でも「だあちゃん」と呼びますが、ダーチャは嫌な思い出の数々と共に、流暢だった日本語を忘れてしまいました。しかし、ダーチャの偉大な思想の少なからぬ部分が名古屋で基礎を与えられたようです。

地元記者との会見の後、遺言でローマから分けられたフォスコの墓にお参りしました。廣済寺の裏手にある墓には「私の天体月へ帰ります。そして争いのないメッセージを地球に贈ります」といかにも彼らしい言葉が刻まれています。山の斜面に開かれた墓から下を覗くと池が見えます。ここではカエルや蛇をとらえて食べたとのこと。シマヘビがうまかったとか…。というわけで、ダーチャの食へのこだわりは大変なもので、同行者は何を食べさせるか大いに悩みました。

抑留中にヤギの親子が提供され、それを食べさせられたショックで、肉はいっさい食べません。日本食を食べたいと言いますが生ものはダメ。しかし、海苔で巻いたおにぎりはよく食べてくれました。それは札幌、京都で体験した幸せな心の味なのです。

過酷な強制収容に耐えることができたのはなぜか。その質問にダーチャは「邪悪な人間たちに苦しめられたが、廣済寺ではそれにも増して善良な人間に会えた。それが忍耐する力となった」と答えます。名古屋へは考える会代表幹事の一條英俊も同行しました。